Baruch De Spinoza の認識Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ
知覺樣式一、知覺樣式二
一九
一、聞き覺えから、あるいは何らかの、いわゆる慣習的記號から得られる知覺。
二、漠然たる經驗から、言ひ換へれば、知性によって規定されない經驗から得られる知覺。漠然たる經驗と言はれるのは、それが偶然の出來事にすぎないから、そして我々がこれと矛盾する他の何らの場合も持たないといふ理由で我々に確實視されてゐるに過ぎないからである。
知覺樣式三
一九
三、事物の本質が他の事物から結論される――といっても妥當に結論されるわけではない――場合の知覺。これは我々がある結果から原因を歸結する時、あるいは、常に何らかの特性を伴ってゐるある普遍的な槪念から結論がなされるときに生ずる。
表象力 (imaginatio) によって混亂される
知覺樣式四
一九
四、最後に、事物が全くその本質のみによって、あるいは、その最も近い原因の認識によって知覺される場合の知覺。
1. 臆見
第二部第一章
一、單に信念 (この信念は經驗からか傳聞から生ずる) に依って得るか、
第一のものは通常誤謬に從屬する。
第二部第二章
我々が第一のものを臆見 (Waan) と名づけるのは、それが誤謬に從屬してをり、そしてそれは我々が確實に知る物については決して生ぜず、たゞ臆測や意見が問題になる場合にのみ生ずるからである。
第一のものからは善き理性に矛盾するすべての感情〔受働感情〕(Lijdinge) が生ずる。
2. 信念
第二部第一章
二、それとも眞の信念に依って得るか、
第二部第二章
第二のものを信念 (Geloof) と名づけるのは、我々が單に理性に依って把握する事物は我々に觀られてゐるのではなく、たゞ精神の確信に依って、それがさうでありそれ以外でないことが我々に識られてゐるに過ぎぬからである。
第二のものからは善き欲望が、
理性
3. 明瞭な認識
第二部第一章
三、或は又明瞭判然たる認識に依って得るかである。
第二のもの及び第三のものは、相互に異なるものであるとは言へ、誤ることはあり得ない。
第二部第二章
我々が明瞭な認識 (Klaare Kennisse) と呼ぶものは、理性の確信に依ってではなく、事物それ自身を感覺し享受することに依って生ずるものである。そして此れは他の兩者より遙かに勝れてゐる。
第三のものからは眞にして正しき愛がそのすべての派生物とともに生ずる。
直觀
第一種の認識
第二部定理四〇備考二
一 感覺を通して毀損的・混亂的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から (この部の定理二九の系を見よ)。このゆえに私は通常かうした知覺を漠然たる經驗による認識と呼び慣れてゐる。
二 もろもろの記號から。例へば我々がある語を聞くか讀むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に與へる觀念と類似の觀念を形成することから (この部の定理一八の備考を見よ)。
意見 (臆見、opinio)。表象 (想像、imaginatio)
第二種の認識
第二部定理四〇備考二
三 最後に、我々が事物の共通觀念あるいは妥當な觀念を有することから (この部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。
理性 (ratio)
第三種の認識
第二部定理四〇備考二
そしてこの種の認識は神のいくつかの屬性の形相的本質 (essentia farmalis) の妥當な觀念から事物の本質の妥當な認識へ進むものである。
直觀知 (scientia intuitiva)
第一の一般性
唯物辨證法について Ⅲ 理論的實踐の過程
つねに科學は、實在する諸觀念、「諸觀念 Vorstellungen」、すなはち、ideology 的な性質の、あらかじめ實在する《第一の一般性》にむかって働きかける。科學は、純粹で絕對的な「事實」の「所與」となるところの、客觀的な、純粹な「所與」には働きかけない。反對に、科學の固有な仕事は、それ以前の ideology 的な理論的實踐によって練り上げられた、ideology に屬する「事實」の批判を通じて、科學的な固有の事實を練り上げることに存する。 材料
思考に於ける抽象的なもの
第二の一般性
唯物辨證法について Ⅲ 理論的實踐の過程
それは一群の槪念によって構成されてゐるが、その槪念の、多少とも矛盾する統一體が、一定の時期 (歷史的な) における科學の「理論」を構成する。つまり、科學のあらゆる「問題」が必然的に提起されるところの領域を決定する理論を構成する (換言すると、科學がその對象において――科學の「事實」と「理論」との、科學の古い「認識」と「理論」との、科學の「理論」とその新しい認識との對決において――出會ふ「困難」が、その領域によって、その領域において、問題といふ形式で提出されることになる)。
生產手段
理論
二重化 ($ \ne二重性)、ぶれ (偶然)
第三の一般性
唯物辨證法について Ⅲ 理論的實踐の過程
種差的な「槪念」、つまり認識といふ、もう一つ別の「具體的な」一般性
第一。《第一の一般性》と《第三の一般性》のあいだには、けっして本質的な同一性はない。ideology 的な一般性の、科學的な一般性への轉化 (たとへば、Gaston Bachelard が「認識論上の切斷 (認識論的切斷)」と呼んでゐる形式において考察される變容) によってであれ、科學的な古い一般性を「包含し」ながらも、それを非難するところの、つまり、その「相對性」と有效さの限界 (從屬的な) とを決定するところの、新しい科學的な一般性の生產によってであれ、つねに現實的な轉化が存在してゐる。 第二。《第一の一般性》から《第三の一般性》へ、換言すると、この兩者を區別する本質的な差異を考察にいれなければ、「抽象的なもの」から「具體的なもの」へ移行させる仕事は、理論的實踐の過程のみに關係してゐる。換言すれば、それは完全に「認識のなかで」おこなはれる。
生產物
科學的な一般性
認識
思考に於ける具體的なもの
症例。しるし (兆候)
《第一の一般性》と《第三の一般性》の平行
ideology は感覺的なものを具體的なものと見做し、科學全體を抽象的で困難なものと見做す。科學は ideology を抽象的なものと見做し、其処から認識を具體的なものとして生產する だから、抽象的なもの (《第一の一般性》) と具體的なもの (《第三の一般性》) との現實的な區別――これは理論的實踐にのみかかはる――と、他方、具體的なもの (現實的なものの本質をなす) にたいして抽象 (思考・科學・理論の本質をなす) を對應させる、もう一つ別の區別――こちらは ideology に屬する――、この二つの區別を混同しないことが肝要である。 その一。G. W. F. Hegel はまづ科學的認識の生產といふ仕事を、「具體的なもの (現實的なもの) それ自體の生成の過程」とみなしてゐる。
その二。彼は、認識の過程のはじめに現はれる普遍的な槪念 (たとへば、普遍性といふ槪念でさえ、また、『論理學』における「存在」といふ槪念) を、この過程の本質および動因や、「自分自身を生みだす槪念」とみなしてゐる。彼は、理論的實踐が認識 (《第三の一般性》) に轉化させるはずの、《第一の一般性》を、轉化の過程それ自體の本質および動因とみなしてゐる。
「經驗と科學」
一、經驗的現象 これはどんな人でも自然の中で認めるもので、後に
二、學的現象 へ實驗によって高められる。これは、それが最初に知られたときとは異なる事情と條件のもとで、多かれ少なかれまとまった連續性のうちにそれを提示することによって行はれる。
三、純粹現象 はあらゆる經驗と實驗の帰結として最後に生じてくるものである。それは孤立してゐることはけっしてありえない。それが現れるのは諸現象の絕えざる連續性のうちにおいてである。それを提示するために人閒精神は經驗的に動揺するものを確定し、偶然なものを排除し、不純なものを分離し、混乱したものを解きほぐし、そればかりでなく未知のものさえ發見する。
連續性
Kant 原理
〈私〉の連續性 (超越論的構成)
←→Leibniz 原理
〈私〉の現實性 ($ \ne《私》の現實性)
Kant 原理ではない、學的認識の根據。自明な命題を構成する事の出來る直觀の能力
第二編「物理的色彩」一七四〜一七七
一七四 實際、われわれはかの普遍的に言い表された主要現象を根本現象ないし根源現象と呼びたいと思うのであるが、それがどういう意味であるか、ここで直ちに解說することを許していただきたい。
一七五 われわれが經驗において知覺することがらは、たいてい、少し注意すれば一般的な經驗的分類項目に入れられる個々の場合にすぎない。これらの場合は改めて學問的分類項目の下位におかれるが、これらの項目はさらに上位の項目を指し示している。そのさい、われわれは現象するもののある種の不可欠の諸條件を詳しく知るようになる。これ以後、すべてのものは徐々に高次の規則ないし法則のもとに從屬していく。しかし、これらの法則は言葉と假說によって悟性に明らかにされるのではなく、同じく現象によって直觀に對して啓示される。われわれがこれらの現象を根源現象と名づけるのは、現象界の中でそれらの上位にあるものは何もなく、これに對してそれらは、われわれが先刻登っていったように、段階的にまたそれらから日常的經驗の最も卑屬な場合にまで降りていくことができるのにまったく適してゐるからである。われわれは一方に光、すなわち明るいものを、他方で闇、すなわち暗いものを見る。兩者のあいだに曇りを入れると、これら二つの相對立するものから、この仲介の助けによって、同じく相對立する二つの色彩が展開してくる。しかし、これらの色彩はすぐまた相互關係によって、直接にある共通のものを指し示しているのである。
一七六 この意味でわれわれは、自然硏究において犯される次の誤りを、はなはだしく大きなものとみなさざるをえない。すなわち、派生的現象を上位に、根源現象を下位におき、そればかりでなくこの派生的現象を再びさかさにして、それにもとづいて複雜なものを單純なものとして、單純なものを複雜なものとして認めたりする誤りである。この本末轉倒から奇怪きわまりない錯綜と混乱が自然科學の中に生じ、科學はいまなおそれに悩まされてゐるのである。
一七七 しかし、このような根源現象がたとえ見出されたとしても、それをこのようなものとして承認しようとしないといふ禍が依然として殘っている。われわれは、ここで直觀の限界を是認すべきであるのに、根源現象の背後に、またそのうえさらにそれ以上のものをなお探し求めるのである。自然硏究者は根源現象をその永遠の平安と榮光のうちにあるがままにしておき、哲學者は根源現象をその領域に取り上げるがよい。さうすれば彼は、個々の場合や一般的な分類項目や見解や假說などにおいてではなく、根本現象ないし根源現象において自分の今後の硏究のために貴重な素材が與へられることを見出すであろう。
光の屈折に於けるボビンとか、ベクトル場に於ける水車とか、ホイヘンス=フレネルの原理に於ける素元波のやうなやつ